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蔵のあるまちVol.10 蔵のひとびと

[投稿日]2024年09月02日 / [最終更新日]2024/09/04

「酒蔵を巡る旅の最後に私が辿り着いたのは、このまちの走馬灯のようなところだった」――作家・清水浩司

 

――「生活の中に酒蔵があるまち・東広島市の魅力を、酒の素人の視点から伝えたい」。日本酒に全く詳しくない広島市在住の自称文豪・清水浩司が筆を執り、東広島のまちと蔵を見つめ歩く。2022年からスタートした当連載も、ついに最終回。「福美人」では、蔵と、その蔵で働く人々にフォーカスを当てる。

 


 

いよいよ最終回である。

 

当連載、最初は文豪崩れのライターが東広島の酒蔵をきままに呑み歩くというコンセプトではじまった。しかし西条の酒に呑まれたか、気がつけば“気まま”の範疇を脱輪し、ぶらぶら範囲は安芸津や黒瀬まで拡大。各蔵を訪れ、呑んで語り呑んで語りを繰り返しているうちに、やがて私の中では不思議な感覚が芽生えるようになっていった。それは、

「私がやってるのは酒蔵探訪でも東広島ぶら散歩でもなく、タイムリープなんじゃないだろうか?」というものである。

 

いざ、タイムリープ!

(タイムリープにはJR山陽本線を利用。いつもと一緒じゃん)

 

いきなりなんじゃそれ!とツッコミが来るのは承知の上、まずタイムリープとは何かというといわゆる「現在・過去・未来を自由に行き来する能力」でSFの一手法である。ある年代以上の人にはタイムスリップと言った方がわかりやすいかもしれない。
『時をかける少女』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『JIN -仁-』あたりが代表作とされるが、最近でもドラマ『不適切にもほどがある!』や『ブラッシュアップライフ』など量産されていて、「ああ、またタイムリープものね」とひとつのエンタメジャンルと化しているフシがある。

で、なんでこの蔵さんぽがタイムリープなのか?
酔って適当に思い付いたこと書いてるだけなのか?(まあ、それもある)
しかしいよいよ最後の最後に来て、私の足取りは時空をまたいだタイムトラベルの様相を呈していくのである。

 

 

さあ、失われた時を求めて。時間を超えた旅に出よう!

(文豪なりにタイムリープをイメージしたポーズ!?)

 


連載最後の訪問蔵となったのは「福美人酒造」である。

(酒蔵通りから北に一本入った筋に位置。左の方に「西條酒造学校」の看板も)

 

ここ福美人酒造は、これまで訪ねた蔵とは一味違う蔵だ。
大正6年、当時西条町長だった吉井常夫が発起人となり、町の産業振興のため官民一体で「西条酒造株式会社」を立ち上げた。西条酒造は確かな技術力で全国の品評会で高い評価を収め、西日本を中心に醸造技術を広める役割も担っていたことから酒造りを学びたい者が集まるようになる。それゆえ「西條酒造学校」と呼ばれるようになり、やがて福美人へと名前を変えた。

「昔は杜氏の勉強の場である《福美人会》という集まりもあって。寒造りの時期が終わった頃、全国の杜氏が集まって今年作った酒を評価し合うんです。その年一番いい酒を造った人に贈られる優勝旗は今も恵比寿蔵に飾ってますよ」

(当時使われていた優勝旗。歴史の重みになぜか無表情になる文豪)

 

答えてくれたのは福美人の島治正社長(写真左)。この島社長、福美人という名を体現するがのごとく柳腰というか…。

 

広島弁的に言うとめちゃ「やおい」。

 

(見よ、やおさがにじみ出るこの笑顔)

 

 

「実は私も過去のことにはそれほど詳しくないんですよ、ほほほほほ」

「私が社長になったのは先代の島英三が亡くなって……あ、違うわ」

「えっと、いつからや? わしがやりだしたのは?」

 

寝かせて寝かせてトロトロになった熟成酒のような人当たり。会ったことはないが公家さんみたいなお人柄である。

 

「ぶっちゃけた話、ま、当時は儲かったんでしょうね。ほほほほほ」

 

ほほほほほほ。だからそう言われてもイヤミがない。実際、福美人の大黒蔵は西条最大の木造建屋だし、27メートルある赤レンガ煙突の高さも西条一。カープ創成期の樽募金で使われた樽も福美人のものだったと聞けば、蔵に足を向けて寝られる広島人はどこにもいないはずである。

 

これが「樽募金」専用樽か。

(右上に「賽銭」と印字されている酒樽。こちらも恵比寿蔵内に展示)

 

 

――ほほほほほほ、まちの産業振興の象徴であり最大手、かつ酒造技術のリーディングカンパニーとくれば、そら儲かったでしょうなぁ~、よろしおすなぁ~~~~

 

ほほほほほほ……。

 

(筆者と島社長を見つめる数々の福美人グッズも笑っている気がしてきた。おほほほほ…)

 

 

……と、ここでオホホオホホと公家プレイに巻き込まれている場合ではない。
本日私が福美人を訪れたのは、まさにその酒造りのために集まった職人たちについて話が聞きたかったからである。

以前、ある蔵元さんと話をした時、その方が口にした杜氏への憧れがずっと心に残っていた。かつて、経営者である蔵元よりずっと存在感が強かったという杜氏。「あんたの夢をわしの技術で叶えてやるわ」という心意気。気性の荒い職人集団を統率する胆力……彼らの元で酒はどう造られていたのだろう? 杜氏とその下で働く蔵人たちはどのような生活をしていたのだろう? それが知りたくなったのだ。

 

(本社事務室で、数多の福美人たちに見つられながらお話を伺っていく)

 

「昔は冬場になると人口がいっぺんに増えるわけです。でも今は季節工と言われるような人はほぼいなくなって。そういうのは平成くらいまでですよ……」

 

島さん曰く、今は蔵人の内製化が進み、かつてのような移動性の蔵人文化はもう一部の蔵でしか残ってないという。

最盛期には福美人で約50人、賀茂鶴と白牡丹を合わせて200人ほどが酒造りのために西条にやって来た。稲刈りが終わった10月に蔵に入り、田植えが始まる直前の5月頃まで蔵にいる。福美人の場合は広島の県北や遠く岩手の農家からも来たし、その中には冬は漁に出られない山口長門の漁師もいた。いわば「半農半X」を先取る「半農(半漁)半蔵」というライフスタイル。「また今年もよろしくナ」と言葉を交わし合う出稼ぎ蔵人が数年前まで西条のまちには大量に流れ込んでいたのだ。

 

(かつては多くの蔵人たちが行き来した福美人前の路地)

 

「冬になると狭いこの通りの人口密度が一気に高くなるんです。みんなヒマになると呑みに行ったりパチンコに行ったりして。10時門限とかあって、守らない輩はドッカーン!とやられたりしてましたね(笑)。道端歩いてたら醪(もろみ)の香りが漂ってくるし、『酔いたんぼ』がどっかで寝転がってる、それが西条の冬の光景ですよ」

 

「余裕はあまりなかったと思いますよ。蔵の中は戦場でしたから。蓋麹(ふたこうじ:木製盆を使って麹を作るやり方)なんかしようと思ったら、400枚くらいの蓋をいっぺんにムロ(麹室)から出さなきゃいけないわけです。もうドシャー!って出して、その後すぐに盛り込み(温度が下がらないよう蒸米を山形に盛ること)だから戦争状態ですよ。時間との勝負ですから。吟製(吟醸酒造り)なんてやりはじめると朝の3時からだし。厳しい世界ですよ……貧しいがゆえってところもあったんでしょうけど」

 

あまりの修羅場ぶりに圧倒される。過酷な肉体労働の最前線でぶつかり合う男たち。当然ストレスは溜まり、逃げ出そうとする蔵人もいた。それをまとめる杜氏に必要なのは、クリエイティブなどという優雅な感性ではなく、棟梁や親方と同等のカリスマ性であり腕っぷしだったに違いない。

 

が、今回はその杜氏にも蔵人にも会えはしない。そんな時代は平成までで終わってしまったのだ。申し訳ながって福美人職員の大村耕平さんが相手をしてくれるが「僕はあくまで手伝いって形なので……」「あっちは職人さんの集団なんで……」と言葉の端々に蔵人たちへの畏怖の念が滲む。絶ッ対に踏んではいけない白線の存在をビリビリするほど感じることで、蔵人への好奇心は膨らむばかりだ。一体どんなにすごかったんだ、蔵人たち!?

 

(こちらが大村さん。現在48歳、高校を卒業して以来ずっと福美人で働いている)

 

「昔はウチも寮とかあったんですよ……」

ん? 聞き捨てならねえ。寮が残ってるんですか?

「見ます?」

見ますよ、そりゃ!

 

そして私は急遽、タイムトラベルの搭乗員に変身した。

 

島さんの案内で恵比寿蔵の奥に進んだ。この蔵はもう酒造りには使われておらず、瓶詰用の機械がポツンと置いてあるだけだ。がらんとした元・工場。かつてここに反響していた怒号と熱気を空想する。先に伸びる薄暗い空間は、過去へとさかのぼるタイムトンネルそのものだ。

 

島さんは蔵の奥の入り組んだ階段をあがった。

(一見、非常階段のようにも見える鉄製の階段を上っていく。この先に蔵人の寮が?)

 

錆びた手すり。何年も踏まれた気配がない床板。鍵を開けて中に入ると、むっとした廃屋の臭いがまとわりついた。

 

え、ここ?

(寮って蔵の中にあるの? 通勤ゼロ分じゃん!)

 

建物は時が止まっていた。寮は平成10年に閉じたというから、もう25年近くたつ。四半世紀ぶんの空気が動き出す。中は細かい部屋に区切られていて、各部屋の入口に病院で使われているような名札入れが付いていた。「203 三村」「205 細野」……まだそのままになっている。当時のままになっている。

私は見えない力に引き込まれるように奥へ奥へと進んでいった。フラフラと足が勝手に前に出る。206、207、208……この部屋番号はどこまで続いているのだろう? わたしは一番奥まで行けば杜氏や蔵人で賑わっていたかつての酒蔵に出会えるような妄想に取り憑かれて、ひたすら奥へと入っていった。

 

209まで続いた部屋の先にあるドアを開けると、思わずアッ!と声が出た。巨大な原色のカタマリが目に飛び込んできたのだ。

大広間の中央に、赤のカバーや緑色のカバーなど大量の布団が「どんど焼き」のようにうず高く積まれていた。山のように積み上げられた使用済み布団の束はドギツイ色の布団カバーが絡み合い、乱暴にねじれて、異様な生々しさを放っていた。

「やめてくださいよ、お恥ずかしい~」。後ろから島さんの優雅な声が追いかけてくる。

 

かつてここに住まい、福美人の酒を作った人たち。203の三村さんに205の細野さん。みんなどこへ行ったんだろう? みんな今どこで何をしているのだろう? まだ人の匂いがする。まだ蔵の奥は時が止まったまま、かつてここにいた人たちの気配を濃厚に封じ込めている。

 

(事務所の上にある、歴代社長や杜氏の写真が飾られる部屋も見せていただく。昔はこのように代々の当主の写真が飾られる家庭も多かったが、やはり数が尋常ではない)

 

「今は身の丈に合った人数でやってます。今の時代だから酒だけでやるのは大変で、空いたスペースで料飲関係をやってみるとか、生き残る姿を模索するしかないのかなって思いますねぇ」

 

その声にはあきらめも哀しみもなく、そういう時代だからという達観が感じられた。私は「入浴は午後八時までです」と毛筆で書かれた木札を見ながら、その声にむしろ簡単には倒れない、ひょうひょうとしたシブトサのようなものを感じている。

 

(入浴は夜8時まで、門限は夜10時まで。風呂上りに一杯飲んで寮へ戻るイメージか)

 

勃興から全盛、日本酒離れ、そして品質勝負、世界展開のその先へ。大正から昭和・平成・令和と、学び舎になったり戦場になったり遺構のようになったりしながら変幻自在に流れていくのは、カタチのない「芳醇な水」だからか。だからつかむことなどできなくて、ただ呑め、身体に入れて熱くなれ、酔いしれろ、ということか――。

 

私はいつだかわからない場所に、ただぼんやりと立っている。酒のせいなのか? いや確かまだ吞んでないはずだが。

酒蔵を巡る旅の最後に私が辿り着いたのは、このまちの走馬灯のようなところだった。

 

 

 

ご愛読ありがとうございました。2024年10月、本連載の書籍化を予定しています。東広島ファン、日本酒ファン、清水浩司ファンの皆様、引き続き応援よろしくお願いします。

 

 


しみず・こうじ/作家・ライター・編集者。1971年生まれ。2019年、小説『愛と勇気を、分けてくれないか』(小学館)で第9回広島本大賞受賞。スペイン・サンティアゴ巡礼を軸にした3ヵ月に及ぶ旅の模様をnote「ぼんやりした巡礼」にまとめる。

 

>「蔵のあるまちシリーズ」全話(まとめ)

 

>「蔵のあるまちシリーズ」を最初から読む

(蔵のあるまちVol.1 暮らしのなかにある蔵)

「目をこらせば、ほら、いま私たちが歩いているこの道を、かつての侍や町娘たちも笑いながら歩いていくようじゃないか」――作家・清水浩司

 

>1つ前の「蔵のあるまち」シリーズを読む

(蔵のあるまちVol.9 さまよい歩け、蔵開き2024)

「昼間から飲む日本酒って、最高に禁断で背徳的な味がする」――作家・清水浩司

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