「祖業謹守…地球環境も経済環境も生活環境も激しく移り変わる現在、それは決して楽な道ではないはずだ」――作家・清水浩司
――令和のネオ文豪こと作家・清水浩司が、東広島市内の酒蔵のある地域をめぐる連載として、2022年に始まった当コラム。今年の酒造りが始まる10月を目前に、Season2がスタートする。さて、文豪が久しぶりに降り立った「蔵のあるまち」、そこは…。
帰ってきたぜ、おっかさん。
2年目を迎えた当連載「蔵のあるまち」、東広島市にある10の酒蔵をコンプリートレポートするというミッションの下、引き続き街ブラを続けることになった。呑んで、歩いて、話して、吞んで――そんな風来坊の至福の時間に今しばらくお付き合い願いたい。
さて、新シーズン一発目は黒瀬町にある「金光酒造」である。
東広島市にある「日本酒10」はエリア別に分類すると3つの地域に分けられる。10蔵のうちの7蔵は西条・酒蔵通りに位置するが、残りの2蔵は安芸津、1蔵は黒瀬という内訳だ。みなさんご存じのように東広島市は周辺の町村が合併してできたばかでかい市で、安芸津は旧・豊田郡安芸津町、黒瀬は旧・賀茂郡黒瀬町、どちらも東広島市の一員となってまだ20年も経っていないという歴史がある。同じ日本酒10とはいえ酒蔵の背景やカルチャーはすべて異なっていて、地域性と味わいの相関関係を吟味するのもこの酒処の愉しみ方のひとつとなっている。ということで改めて……。
黒瀬にやってきたぜ、おっかさん!
やってきたはいいものの、悲しいかな私は黒瀬について何も知らない。地図を見ると、東広島市とはいえすぐ左に熊野町、下に呉市。西条からも10km以上離れている。黒瀬といえば、黒瀬といえば、えーっと何ですか?
……何も思いつかない。
私はあたりを見回した。山の緑はしたたるほどに濃く、広い青空には入道雲。強い日差しとセミの声。神社の鳥居と実る稲穂。まるで井上陽水が「少年時代」を歌い出しそうなノスタルジーあふれる日本の原風景じゃないか。私の心は夏模様じゃないか。
と一曲歌ってみたところで、それにしてもこの暑さはどうなんだと私は我に返った。取材日はお盆を過ぎた8月某日。もはや夏の情緒もへったくれもなく“危険な暑さ”が常套句となった2023年の炎天下、それなのに文豪らしく背広を羽織って街ブラするというのは一体何の災厄だろう。
そもそも「蔵のあるまち」と言いながらここに街らしき街はない。虫取りしている子どもはおろか、人っ子も全然いやしない。私は砂漠をさまよう旅人のように黒瀬をタテに貫く国道375号をさすらっていたが、そこに突然、オシャレなケーキ屋かと見間違う白屋根の建物があらわれた。
これはマボロシか? 黒瀬のオアシスか? 誘蛾灯に引き寄せられるようにふらふらと門の中に入ってみると――
「こんにちは。お待ちしてました」
今も黒瀬に残る唯一の酒蔵「金光酒造」の5代目、金光秀起さんが私を待っていた。
「戦前は酒蔵も十数軒あったと聞きますけど、最終的に残ってるのはうちだけですね」
苦労人、という言い方は嫌がられるだろうが、金光さんのこれまでの話を聞くと近年の日本酒が置かれた状況と黒瀬という土地柄がよくわかる。金光酒造は明治13年(1880年)創業。「桜吹雪」が庶民のお酒として飲み屋街で人気を博すが、日本酒人気の低迷と共に売上も下降。金光さんが蔵に入ったときは価格競争にも巻き込まれ、もはやジリ貧と呼べる状態だった。
苦境に立たされた金光さんは、一大決心をする。蔵を再興するには自分が本当に美味しいと思える酒を製造して販売する高価格路線に舵を切るしかない。そして7年に及ぶ研鑽の末、平成20年(2008年)全国新酒鑑評会で金賞を受賞。そこからは安定した評価を得て今に至っている。
「どうして黒瀬でお酒が造られるようになったか……そこに米があったからとしか言いようがないですね。西条は鉄道駅が近くにあって陸運の拠点、安芸津は港があって海運が盛ん。でも黒瀬は別に何もないんです。特別水がいいというわけでもない。僕は“東広島の酒”と一括りにされるのが嫌いなんです。だってここは西条からも離れてるし、立地も環境も全然違いますから」
言葉のはしばしにプライドがのぞく。やはり東広島の酒の中心は西条。本流から外れた場所にいるゆえに辛苦もあっただろうが、本流から外れた場所にいたからこそ真っ直ぐに我流を突き詰められたところもあっただろう。「こだわった酒を作りたいと思ったらそれなりの覚悟を持ってやらなければならないので……」という独白にピリッと電気が走る。
私は酒も好きだが、それ以上に譲れない何かを持つ本気の職人が大好きなのだ!
そんな金光さんに、季節と日本酒についての話を聞く。蔵の外では早くも稲刈がスタートし、まわりに蜻蛉が飛んでいる。黒瀬は街より季節が色濃く、鮮やかに感じられる地域であることは直前の散策で実感済だ。
「でも最近は天候がこれまでと変わってしまって……。まず材料となる米の質が変わりました。高温障害で米が硬くなってるんです。あと酒は気温が低くて空気中に雑菌が少ない“寒造り”が基本ですが、それも温暖化でめちゃくちゃになってて……」
そもそも日本酒は日本の四季と切っても切り離せない存在だ。その一例が秋口に出荷される「秋あがり」「ひやおろし」と呼ばれる限定酒。これは冬に搾ったお酒を熟成させたもので、一度夏に気温が上がって下がることで「秋は味が上がる」「外が冷たくなってきた頃に卸す酒」という意味がある。
だが昨今は気候変動のおかげで9月になっても「まだ“冷や”にはなってないし、だから味も上がってないし。でも寒くなるのを待ってたら10月には“新酒搾りたて”が出てくるし」……気候が変われば旬が変わる。気温の変動を利用した酒のまろみも変化する。こんな地域の酒蔵にも地球環境のバタフライエフェクトが直撃していると思うと複雑な気分にさせられる。
話の後、金光さんの案内で酒蔵の中を見せてもらった。
酒造メーカーにとって夏はオフシーズン。秋以降にはじまる酒造りに向け、機械や容器のメンテナンスや、酒造講習会の受講などがメインとなる。確かに蔵の中はガランとしていて、社員の方がスス払いなどやっている。蔵は創業以来使われている年季もの。新米を待つ嵐の前の静けさが、百年以上続く金光酒造の夏模様なのだろう。
秋口に出荷される予定の「特別純米 秋あがり」の瓶を手に取ると、ラベルに老眼では見えにくいほどの小さな文字を見つけた。
「祖業謹守」
代々祖先から受け継がれてきた清酒製造業を、謹んで守り抜く――地球環境も経済環境も生活環境も激しく移り変わる現在、それは決して楽な道ではないはずだ。自らに対する戒めとしてこの言葉を掲げていると金光さんが言ったとき、私の身体に再びピリリとした電流が流れた。
取材を終えると、せっかく黒瀬に来たのだから黒瀬らしいところに行きたくなった。どこかいい場所はないか金光さんに尋ねると、山の中腹にある公園は眺めがいいと返ってきた。
遊歩道を上がって振り返ると、盆地を取り囲む山々と眼下に広がる田畑が見える。いったん収まっていた汗が噴き出し、背中を濡らす。
あのマークと同じだな――
思い出したのは、さっき見た金光酒造のシンボルマークだった。それは“金”“光”をデザインしたロゴタイプの中に杉玉、稲穂といった酒造りにまつわるモチーフが隠されていて、さらに全体のシルエットが黒瀬の風景になっていた。黒瀬の風景とはつまり山とふもとの田んぼ、ここから見える風景と一緒である。
「昔はこのあたりも蛍がいたんです。僕が小学生だったからもう40年も前か。前の用水路にはザリガニもいて。でも昔、田んぼだったところに今はソーラーパネルがあって…」
「本当はあんまりものが建ってほしくないんですけどね」
声にならない声が聞こえる。変わり続ける世界の中で、たとえどうしようもないとわかっていても見過ごすことのできないものがこのまちには存在する。
蔵のあるまちであると共に、無骨な職人が静かに手業を磨くまち。黒瀬の空に、まだ秋が訪れる気配はない。
しみず・こうじ/作家・ライター・編集者。1971年生まれ。2019年、小説『愛と勇気を、分けてくれないか』(小学館)で第9回広島本大賞受賞。スペイン・サンティアゴ巡礼を軸にした3ヵ月に及ぶ旅の模様をnote「ぼんやりした巡礼」にまとめる。
---新年から新たな試みをはじめるなんて西條鶴さんも2024年に向けて何か誓いでも立てたのだろうか?
(蔵のあるまちVol.6 KURA BIRAKIのあるまち)
出会い頭の「ズッ友だょ……!」カット。左のお方が今回の取材相手
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